アマデウス

2005年2月10日 映画
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1825年、オーストリアのウィーンで、1人の老人が自殺を図った。彼の名はアントニオ・サリエリ。かつて宮廷にその名をはせた音楽家である。そのサリエリが、天才モーツァルトとの出会いと、恐るべき陰謀を告白する。「モーツァルトは殺されたのでは…」。19世紀のヨーロッパに流れたこのミステリアスな噂をもとにしたピーター・シェーファーの戯曲を、完ぺきに映画化。第57回アカデミー作品賞ほか、全8部門を受賞した。
ふんだんに流れる名曲群、舞台にはないミュージカル部分の追加、チェコのプラハでオールロケした美しい映像など、そのすばらしさは枚挙にいとまがない。監督は、チェコ出身の才人ミロス・フォアマン。2人の音楽家の精神的死闘は、見る者を極度に興奮させる。(アルジオン北村)


明日は、卒論発表会がある。
ほとんど緊張してない、何を聞かれてもいいやって感じだ。
それはすべての質問に対する答えを持ってるからじゃない。
発表の場で恥をかいたとしても、内心で誇れる部分があるから構わないと思う。
本当は、いい発表をすべきかもしれない。けれど、あまりわかってもらったりしなくてもいいやって感じだ。
傲慢かもしれないけれど。一年間、自分のためだけに研究をしてきた。でも最初から、僕には人のためになるような物を書き上げることはできないと思ってたし、今もそれで良かったと思う。
納得のいくものが書けたから、それだけでいいし、自分のために研究したものを、他の人に発表してもあんまり意味がないような気がする。

今日、先生から講評をもらった。
ゼミ生8人の講評、ゼミ全体の講評。
去年の講評が酷評だったので、ビビりながら読んだ。
でも、どちらもすごく好意的に書かれてた。
みんな、よくがんばったって。
文学部よりも、必死にやったんじゃないだろうかって。

個人の講評もだいたい高評だったと思う。

足りない部分についても書かれていたけれど、とても優しい印象を受けた。
僕は、先生に提出する感想レポートに「書くことや読むことに対して抱いていた劣等感が、経験したことのない量の文章を書くことによってい少しは和らいだような気がします」ということを書いた。

先生は講評で僕の拙い筆力を、評価してくれた。
偶然かもしれないけれど、偶然じゃないと思う。

たぶん、先生なりの褒美なんだと思う。
プロの目から見れば、足りない部分はどうしても目につくだろう。
それでも、辛うじて足りてる部分を懸命に評価しようとしてくれたのは、やっぱり優しさだと思う。

ただ、怖いけれど、優しさを切り捨てた部分で語られる講評が欲しかった。
そう思うのは、やはりわがままだろうか。

「アマデウス」は、自らの凡庸さにとらわれたサリエリと天才モーツァルトの物語。サリエリは本当にカッコイイだろうか。
僕はどうしても許せない。青いかもしれないけれど、人を蹴落とそうとするサリエリのずるさに嫌悪感を覚える
ただ、モーツァルトの書く作品に強く惹かれ、自らの凡庸さと彼の才能の落差にサリエリが悩む部分には、やはり共感してしまう。

それは僕も凡庸な人間だからだと思う。

サリエリがモーツァルトの足を引っ張らなければ、モーツァルトと彼がレクイエムを共作する感動的な場面は生まれなかっただろう。
やっぱりサリエリはかっこ悪い。そして憎めない人間だと思う。

それは、彼が神に愛された天才ではなく「凡庸な人々の守り神」だからだと思う。

追記
3時間、長いけれど面白いです
色々、テーマが見られるんじゃないかと。
時代背景がわかってるともっと楽しかったのかもしれません
映画好きは見とくといいですよ。

もう1時半、寝よう。

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